近自然工法とは何か
−スイス・ドイツ・オーストリアの川、眺め歩記−

孫田 敏@ARCS 


5.近自然工法とは何か−私見−

5.1 ものをつくるシステム

 今回多くの現場を見て感じたことは、これは土木工学を修めた者だけではできない、ということである。土木工学の専門家や景観の専門家・生態学の専門家がいて、そしてそれをまとめあげるコーディネイターがいて、初めてつくりあげることができるものだと感じた。山脇(2000a)はこの辺の事情を詳しく解説しているので、詳細はそちらを参照して欲しい。実は、ヨーロッパにおけるこのようなシステムは「近自然工法」に限らず他の分野でも広く採用されているようである。かつて聞いた話であるが、ノルウェーの建築プロジェクトではプロジェクトリーダーとしてのコーディネイターがいて、その下にデザイン・構造・設備・外構などの専門家がそれぞれの役割を果たす、というシステムができあがっているという。日本では建築の業績というと主にデザイナーの名前だけがあがることが多いが、ノルウェー場合にはコーディネイターとしての働きが実績として残っていく。

 振り返って日本の河川改修の在り方を見てみよう。プロジェクトの責任者は多くの場合河川工学を専門とする者であり、他の専門家は助言をすることはあっても対等な関係でプロジェクトが進んでいくことはない。いきおい様々な決定は「河川工学的」にならざるをえない。本来であれば「川をどのようにしていくか」は、単に治水・利水だけの問題ではなく、その地域の土地利用をどのようにしていくかを考えることであったはずである。このように考えると、次の2点がシステム上の問題点として浮かび上がる。

(1)専門家間の連携はできているか、コーディネイターはいるか

 現在の河川改修の進められるシステムを、計画を立案するコンサルタントの立場で、図-5.1.1に示した。「多自然型川づくり」が進められすでに10年が経ち、もはや河川工学の専門家たちだけでプロジェクトを進めているようなところはあるまい。しかし実際のところは図-5.1.1aに示すように、社内のプロジェクトリーダーとして、河川工学専門家が各専門家から情報を集め、それを総合化して改修プロジェクトを立案していくことが多いと思う。図からもわかるように、この社内の情報の矢印は一方通行である。実のところ一つの組織で様々な専門家を抱えることは容易ではなく、通常は外部の専門家の技術を導入することが多い。集めた情報を総合化していく過程において、実際には様々な矛盾が生じてくるはずである。矛盾点を再び専門家に投げかけ、矛盾点をできる限り少なくするという働きかけは行われているだろうか?治水のためという名目で、その過程がなおざりになってはいないだろうか?

図-5.1.1 河川改修を進めるためのプロジェクトの組織構成の模式図

 理想としては図-5.1.1bに示すような形が必要なのではないだろうか。図は煩雑であるが、各々の情報が相互的に行き交う有様と、それを統合するコーディネイターの存在が必要であることを示している。ドイツでは図中のコーディネイターが「Landscape Engineer」であるという。ミュンヘンでお会いしたW・ビンダー氏がこのような役割の方であると聞いた。「Landscape Engineer」が関与する分野は実に多岐に渡り、彼は10数項目の分野を挙げていた(メモに書いていただいたが、たぶん香川氏持っているはず)。一般的には「Landscape Engineer」ということばは「造園技師」と訳されている。「Landscape Architect」が本来正しいのだろう。しかし、日本では本来の意味での「Landscape Architect」は育っておらず、むしろ「造園技師」になっているように思う。それに「Landscape」を形づくる手段は「Art」ではなく「Technology」であると考えるため、あえて「Landscape Engineer」ということばを使ってみた。私自身、いろいろと引っかかりのあることばである。

 「川づくり」という作業は、実際河川工学だけではなく様々な分野の総合化のもとに進められなければならないことはいうまでもないだろう。私が意味するところの「Landscape Engineer」という人材を養成し、そしてその人材を生かすためのシステムを、これからどのように構築していくかが問われている。

 なお図中aでプロジェクトリーダーに「?」をつけている。現在は河川行政技術者がその任を果たさなければならないはずであるが、実際に機能しているかということになると別物で、かなりの疑問を感じることから「?」とした。

(2)市民はどう関わり合うか

 大熊(1998)は川づくりに対する近代技術がもたらした問題点を次のように指摘している。

「a.自然の変動を押さえ込んだことによって、自然の物質循環を遮断し、生態系を破壊したこと b.大規模施設では維持管理が高度に難しく、専門的技術者によってしか管理ができなくなり、かつ維持管理費が高額になってきていること c.自然の小さな変動は押さえ込むことができるようになったが、大洪水や大地震のような大変動までは封じ込めることはできなかったこと d.自然や人間同士の関係の中に生まれる矛盾を技術手段の発展の中に吸収してしまい、技術を住民から切り離し、互いに話し合い折り合いを付けるという習慣をなくしてしまったこと」

 私はこの中で4番目の項目に着目したい。近代化以前の農業を主体とした社会では、水害に遭う土地は単に住居の機能だけではなく生産手段でもあった。これが近代化の進行とともに土地から引き離され、農民は賃労働者化していく。無産階級(プロレタリア)の創出である。近代技術は、土地に対する呪縛を取り除くことにより、この動きを加速した。かつて「川」は「生きる=食う」ために程良い関係を保たなければならなかったが、その関係性は不要のものとされていったと私は解釈している。たぶん1960年代の高度経済成長期やそれに続く時代が、「川」との関係性を希薄なものとしてきたに違いない。これは「川」に限ったことではなく、産業社会は労働者を地域社会から引き離すことによって成り立っていた。しかし、会社の寿命が個人の寿命よりも短い時代(P・F・Drucker,2000)に入り労働者が働くことの意味づけが変わりつつある。一方では地球全体まで視野に含む自らの生存基盤としての「環境」が問題視されるとき、これまでのような「産業社会=労働者≠地域社会」という図式は大きく変わっていくだろう。地域との関係性を改めて構築しようとするとき、産業社会の住民であった労働者は地域の住民として「市民」となる。「川」との関係も「市民」が「互いに話し合い折り合いを付ける」方法を模索しながら新たな関係性を築く時代に入ってきている。

 さてその関係性を築くシステムは用意できたのだろうか。河川法の改正で「河川管理者は、河川整備計画の案を作成所要とする場合において必要があると認めるときは、河川に関し学識経験を有する者の意見を聴かなければならない。(第16条2項3)」・「(河川整備計画に関して)河川管理者は、前項に規定する場合において必要があると認めるときは、公聴会の開催等関係住民の意見を反映させるために必要な措置を講じなければならない。(第16条2項4)」と明示された。しかし、あくまで「必要があると認めたときは」であって「全てにおいて……しなければならない」ではない。さらに基本高水など決定する河川整備基本方針では「建設大臣は、河川整備基本方針を決めようとするときは、あらかじめ、河川審議会の意見を聴かなければならない。(第16条1項3)」のであって、そのプロセスに市民が関与することはできない。確かにこれまでの河川法に比べ市民が関与することが可能になったとはいえるものの、「必要があると認めたときは」とあるように河川管理者の恣意性を強く残している。市民の関与は制度的に確立したとはいえない。

 山脇氏の話では、スイスでは日本のような形での市民参加は少ないようである。しかし河川改修は基本的に受益者負担であることから、その改修計画に税金を投入することの妥当性が論議され、結果的には改修計画のプロセスから関与している。さらに「ふるさと保護」などの市民団体に抗告権が法的に与えられているように、実際には市民レベルで関与することがシステムとして体系づけられている点に注目したい。

 今後ますます「川づくり」に対して住民が意志決定権を求めるケースは増えてくるだろう。また660兆円にもなろうという赤字財政は、税の使途の選択範囲を狭め、行政はいやがおうにも意志決定を市民にゆだねざるを得なくなるだろう。市民のパワーの結果というよりも、財政赤字という外的条件によりシステムは変換せざるをえなくなる。

 このとき私たちコンサルタントは何をなすべきなのだろうか?市民が意志決定を行う過程では、a.情報レベルでの参加、b.複数案選択レベルでの参加、c.計画案作成の段階での参加が不可欠である(島津,2000)。結果に参加するのではなく、プロセスに参加するのである。ところで、このプロセスで語られている「ことば」はいかなるものだろう。いわゆる「専門用語」や「役所用語」が跋扈してはいないだろうか。コンサルタントは、情報を提供する、複数の案を作成する、計画案をとりまとめる、ということで各段階で関わっていくものと思われる。このとき心しなければならないことは、「専門家」としての知識・技術を求められると同時に、それらを「市民語」に翻訳して市民にわかりやすく提示する役割も求められていくということである。この役割をコンサルタントとして十分果たせないとき、そのときにはその役割はNPOなりNGOに取って代わられることになるだろう。

5.2 近自然工法とは何か

 「近自然工法」とは何か、と問われても一言ではいいかねている。敢えていうならば、Landschaftを維持・保全していくための手段の一つである、とでもいえるだろうか。Landschaftの概念が、私自身曖昧なところがあるので、答えにはなっていないかもしれない。以下に感じたことを述べたい。

 まず、オルタナーティブな技術であること。近代技術は、機械化・大型化を目指して発展したが、「近自然工法」はこの方向の延長線上にはない。ある意味で近代技術は自然をねじ伏せようとしてきたけれども、その限界も見えてきた。高木(2000)は、「重力によって水が高いところから低いところに流れるとか、熱も高いところから低いところに流れるとか、そういった自然法則に十分依拠したようなシステム」を「パッシビズム」と呼んだが、自然法則を生態系も含んだ概念として考えると、まさに「近自然工法」は「パッシビズム」である。外部からのエネルギー投入を最小限にすること、地形も含めた生態系の自律的な動態をアシストしようとすることなどがその現れである。

 次に感じたことは、「地産地消」の概念である。「地産地消」は、その土地でつくった生産物をその土地で消費し、市場経済の中で翻弄される地域農業の自立化をはかろう、という農業サイドからきた概念であると理解している。消費者サイドからいうと「身近なところで食べ物がつくられ、作る人と食べる人の顔が見えていると安心・安全です。」ということになる。さらにそこでは、輸送エネルギーの削減や資源の地域内でのリサイクルなど、閉じられた系内でのエネルギー循環も視野に入れられ、「グローバル」に対するカウンターカルチャーとしても位置づけられる。「百姓」ということばは、百のものをつくっていることからついたという。百のものをつくるということは、ほんのちょっとした微地形の変化に応じて作物を換えていったということであり、そこには地域ごとに特有の景観を生じさせた。今、里地や里山ということばでひとくくりにされている農村景観は、実に多様な景観を呈していたことと思う。「地産地消」は自給自足圏的な地域の再生を目指しているものであり、そのような意味では「Landschaftの保全」はまさにその概念と一致する。

 ことばを換えていうと、「近自然」の思想は、その地域がその地域らしくあるため、さらに付け加えるならば、人間を含めたその地域の全ての生物が存在することが可能となるような基盤を形づくるための「作法」であり、「近自然工法」はそれを具体化する手段といっても良いかもしれない。


オーストリアの近自然工法 あとがき・謝辞
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