生き物として、正常な働きをするために

よしもと ばなな

あるとき、桜井さん(*)に本を送ろうと決め、お手紙をそえて送ったら、なんとご本人からお電話をいただいた。

やはりすごいなあ、と思った。

手紙に電話番号を書いたわけではないから、自ら出版社に電話をかけ、私の電話番号を聞き、かけてくださったのだ。

あいにく私は不在だったのでお話はできなかったけれど、やはりこの人はすごい人だと思った。妻や年下の人にかけさせることもなく、ただ「本に手紙をそえてくれてありがとう」と伝えるためだけに、行動している。

私も含めて、みんな、意外にそれができなくなっていくのではないか?  それができなくなってきて、だんだん、だめになっていくのではないか?

人生は、少しずつ、荷物が重くなって、やることも多くなってくるからこそ、大事なものが続き、むだなものがしだいに減っていくのではないか? ただ軽く明るくなっていくのは、法則としてありえないのではないか? 最後は重力を含め、たくさんの重いものから解き放たれるからこそ、死は恩寵なのではないか?

私もまあデブではあるが、大事ななにかを止めてしまうとだんだんデブになる上にフットワークも重く、新しいことに対しておっくうになっていくのではないか? 体の形にはその人が全部出てしまう。どんなにすばらしいことを言っていても、ずっしりとおなかが出ていて、体をなるべく動かさずに目下の人にいろいろやってもらうようになると、そして自分がお財布を出さなくなっていくと、確実にやっぱりなにかがたるんでだめになっていくのではないだろうか?

たとえバカ正直だ、損だ、疲れると思っていても、自分である程度動いて判断していれば、生き物として、正常な働きができるのではないだろうか。

*桜井章一:『「麻雀の代打ち二十年間無敗」という「雀鬼」』とある。

130201/2011年
よしもとばなな,2011,人間はすごいな,人間はすごいな −'11年度版ベスト・エッセイ集−,262-269.269pp,文藝春秋,初出,「文學界」2010年新年号