こうした苫小牧地方演習林の川づくりが北海道のテレビや新聞などで紹介され、見学に来る人が増えてきた頃、よく川づくりのマスタープランや年次計画を見せてほしいと言われて困った。なかったからである。あるのは記録だけだった。行き当たりばったりの思いつきで川をいじって遊んでいるのではないか、と言われそうであった。その通りの気もした。
これは難しい問題だと思う。仕事に計画が重要であることを否定する気は毛頭ない。だが、最初に計画がないのは非科学的だと言う前に、自然の取り扱いに関する科学の役割は、結果の解析のほうにあるという謙虚さも必要ではないか。林業にせよ、河川事業にせよ、自然に対する仕事がいちばん大きな過ちを犯すのは、計画が忠実に実行された時なのである。どれほどたくさんの自然が「計画遂行」の犠牲になっていることか。
森づくり、川づくりには何より基本方針が必要である。しかしそれを実現する作業は、絵を描くのと似ているような気がする。絵を描く時に、画家は構図の下書きはしても精密な設計図などはつくらない。一筆、一筆、色と形を確認しつつ、筆を重ねたり描き直したりしていく。
自然に対する仕事も、本来はそういうものなのではないか。少しずつ、絶えず前の仕事を見直しながら、新たな工夫を加えて進めていく。それが理想だと私は思う。ただ、こういうやり方は現代社会の会社や官庁では仕事として成立しにくい。厳密な予定は立てられないし、発注も契約も非常に難しいからである。
苫小牧地方演習林の川づくりの仕事が、「計画」にしばられすに、その時どきの職員の知恵と技術で続けられたのは、それが仕事の合間に、職員の手で少しずつ、つまり手間と金の計算はあまり関係がない形で、頭を使う楽しみの仕事として進められたからである。それは言うまでもなく、小さな職場だからこそできたことだった。しかし、こうした、いわば日本古来の、自然との対話の下で進められる森づくり、川づくりの意味が、近代社会の中で日本人の心から忘れ去られつつあるのを不安に思う。