身体の動き・精神の動き・自然の動き

内山 節

…。技術は、科学によって明らかにされた自然の法則を、生産の場面で用いることからうまれる、とすれば、ここでは生産に対する目的意識が介入してくるし、科学によって与えられた自然しかみえてこない、という問題が発生してきます。その結果、たとえば効率性の追求が生産に対する目的意識だったりすると、その立場から技術がつくられることになります。さらに科学によってとらえられた自然の法則にのみ対応して生まれてくる技術は、そもそも自然の全体性を視野に収めてはいないのです。ですから、これらのことが、技術に主導された労働のもつ問題点であり、技術主導の労働は、自然の全体性と人間の共生関係を創造させない、という現象をつくりだしてしまうように思えます。

この技術に対して、技能は、人間が働きながらえた経験を蓄積したものであり、経験がつくりだしたカンやコツ、判断力、手や身体の動きと一体となったものです。ですから技能とは腕だといっても、かまわないでしょう。

技能=腕は、科学の立場からみれば、はなはだ頼りないものにみえます。経験が教えるものである以上、論理的な裏付けをもっていないし、マニュアル化することも困難です。技能の習得は労働自体によっておこなわれ、その労働のなかでつかみとっていくものでありつづけます。

ところが、このような頼りない技能とともにあった労働のほうが、逆に自然と人間の共生的な関係を成立させることを、私たちは認めるようになってきました。木の性質を経験的につかんできた大工さんたちは、みごとな木の家をつくりだしますし、森林生態系については知らないはずの村人が、たくみに森を利用しながら、その森を維持したりします。農民たちは科学的な知識をもっていなくとも、土が痩せることの意味を誰よりもよく知っています。

身体の動きと精神の動きと自然の動きとが、不可分の関係で一体化する技能的な労働が、自然と人間との共生的な時空を成立させたのです。

1998・09/01/31
内山 節(うちやま たかし),1997,身体と精神と自然が一体となった労働が自然を守ってきた,内山 節+竹内 静子,往復書簡思想としての労働,114-115p,224pp,農文協