端的にいうと、ウェブ礼賛論の中身は、(一部の技術的議論をのぞけば)まったく「古臭いもの」です。
情報や知識のとらえ方も時代遅れの印象を受けますが、とりわけ目につくのは、あまりに米国追従の価値観なのです。成熟や洗練よりも若さと変化を重んじ、アグレッシブに挑戦し、私有財産の拡大につながる実践活動にいそしむ、というのは、昔ながらの米国フロンティア精神の一側面そのものと言ってよいでしょう。フロンティア精神にもとづく自由競争にもいいところはあるにせよ、それは「手つかずの財貨」を分け合う「分配問題」の場合であっても、ゼロサムの「再割り当て問題」においては残酷な悲劇をうむ、というのは第三章で述べた通りです。
さらに広い文脈でいうと、その基盤をなすのは「古典的な進歩主義」です。これは一九世紀から二0世紀にかけての近代化・産業化の時期に欧米はじめ世界各国で信奉された考え方で、伝統文化を徹底的に否定・破壊し、科学技術の力で未来にユートピアを築くというものです(なお、「進歩(progress)」のかわりに「進化(evolution)」という言葉を使う人もいますが、これは誤用です。かつて一九世紀、欧米において両者は不可分の概念とされていました。生物的な進化概念を進歩改善という概念から分離するために、生物学者たちが血のにじむ苦労をしてきたことを忘れてはなりません)。
現在、この古典的な進歩主義が恐ろしい自然環境破壊をひきおこしていること、ゆえにわれわれが必死で新たな指針を模索しつつあるということは、もはや言うこともないでしょう。自然環境のなかにある資源は「手つかずの財貨」ではなく、いわば生態系の共有財産で、慎重に維持しなくてはならないものなのです。
だからこそ、われわれは、人間が生態系のなかで共依存的に生きている存在であることを踏まえ、「情報」という概念を根本からとらえ直さなくてはならないのです。