一神教と多神教

塩野七生

一神教の宗教とは、教祖の言行が最重要の教理となる。だがその教理は、解釈しその意味を説き明かす人を通すことによって、始めて一般の信者とつながってくる。これが、教理の存在しない多神教では専業の祭司や聖職者の階級は必要ないのに対し、一神教ではこの種の人々の存在が不可欠になってくる要因であった。(263p)

人間を守護してくれるの神を祭るのが本来の性質である多神教ならば、「神のお告げによってもたらされる心理」を意味する「教理」(ドグマ:dogma)が存在しなくても、いっこうに不都合ではない。だが、人間に生きるべき道を指し示すのを目的としてる一神教となると、教理があること自体がその宗教の存在理由になる。そして、この解釈の違いを調整しないで放置すると、宗教組織は空中分解してしまう。それを解釈のちがいを調整することで阻止するのが、司教たちを集めて開かれる公会議の目的なのであった。(274p)

… それに、いまだキリスト教が微々たる勢力でしかなかったころの二百七十年も昔に、キリスト教をユダヤ人の民俗宗教から世界宗教への道に進ませることになる聖パウロが、すでに次のように説いているのである。

「各人は皆、上に立つものに従わねばならない。なぜなら、われわれの信ずる教えでは、神以外には何であろうと他に権威を認めないが、それゆえに現実の世界に存在する種々の権威も、神の指示があったからこそ権威になっているのである。だからそれに従うことは、結局はこれら現世の権威の上に君臨する、至高の神に従うことになるのである」(286p)

2007/12/24
塩野七生(しおの ななみ),2004,ローマ人の物語13 最後の努力,263p,274p,286p,296pp,新潮社