このように、著作権に関する「法律ルール」は、「常に全員が不満」という宿命的対立構造を背負っているが、「自分にとって不満」という状況(単に、自分にとって有利な法律ルールが、自分自身の力不足のために多数の支持を得られておらず、憲法のもとで採用されていないという状況)のことを、「不公正だ」などと言う人が多い。こうしたことが、「多様性の中における民主的なルースづくり」に大きな問題をもたらしている。「ルールを超えた公正さ」というおかしなものを振りかざす人びとの「公正」とは、実は「自分の思想・利害」にすぎない。ところが、異質な人びと建設的な話し合いをしていくことができない人は、思想や利害を異にする人と出会うと、まず「なぜ私のすばらしい考えに賛同できないのだろう?」と「驚き」、どうしていいか分からず「戸惑い」、最後にはこれが「怒り」になっていくようだ。相手を「悪」として呼ぶかわりに自分を安易に「弱者」と呼ぶ人も同様だが、著作権の「法律ルール」に関する議論においては、対立する当事者の双方が「自分たちは『弱者』であって、『不当』で『不公正』なルールを押し付けられている」などとお互いに言い合うことが多い。
…。まず、「相手もエゴだが、自分もエゴ」「どっちもどっち」−という相対化が必要であり、それが「ルール感覚」の基本なのである。